SM・調教とは?
そもそも、この自由を謳歌される時代に、何故自由を奪われたいと思うのか
一口にM性と言っても、人によって様々な嗜好と方向性がある。
SEXが苦手な人もいれば、反対に性的に凌辱されたいと考える人もいる。
痛い事や苦しい事をされるのが好きな人もいれば、恥ずかしい事をされたい人もいる。
惨めな思いをさせられたい人もいれば、そういうのが許せない人もいる。
しかし、SM的行為において「自由を奪われたい」と思っている人は多分、圧倒的多数だと思われる。
緊縛や拘束具での肉体的に自由を奪われる事や、奴隷という立場に追いやられて、精神的にも自由を奪われたいと思っている人が大半であると思われる。
そもそも何故、奴隷という言葉に惹かれてしまうのか。
古代より近代まで、実際に奴隷というものは存在した。そこから解放される為に、どれだけ多くの人が血を流して自由を得た事か。にも関わらず、これだけ人権というものが大事にされ、人々が自由を謳歌している現代において、わざわざ自由を奪われる事を望むのか。
生きていく上で自由を享受する為には、そこに社会的責任も生じてくる。自立をしなければいけないし、人から見られる自分というものも意識しないといけない。
ちゃんとしないといけない
後ろ指をさされてはいけない
淫らに思われてはいけない
失敗は避けなくてはいけない
自由で生きる事は、これほど多くの制約の中で成り立っている。とてもしんどい現実。
誰かが勝手に自分に対して作ったイメージを壊さないように、知らず知らずのうちに演じている自分。
自由で生きるためにはなんと大変で、そして不自由な事か。だからこそ、別の意味での不自由に憧れるのではないか。
たとえば、誰かに自由を奪われた時の状態は、当然、あらゆる意志も奪われているのであり、そこで起こる事態は自分ではどうする事もできない。
もし淫らな自分が出たとしても、それは自分の意志ではなく、自由を奪っている人の意志によるものである。
これを言い換えると、
「自由を奪われている時は、普段の自分から解放されている」という事になる。
自由を奪われる事でやっと初めて得る自由
それが心地よいのかもしれない。
小さな頃。その頃の自分の世界においては、親は絶対的な存在であった。その絶対の存在に自分をまかせていれば良かった、限りない安心感。無条件で愛されている心地よさ。
人は無意識の内に、その頃に戻りたいのかもしれない。
また、自由を奪われ、支配されるという事は、その相手には日常の中で隠されていた本当の自分を見せられるという事。
「見られたくないけど見られたい」
「知られたくないけど知ってほしい」
それは、本当の自分を知られてなお、それを受け入れてもらいたいという願い。
日常においては、誰もが鎧を着て生きている。裸で生きていればあちこち傷ついて生きてはいけない。だから出来るだけ強く丈夫な鎧を着ようと努力する。
でも、強く丈夫な鎧であればあるほど、ずっと着ていれば重くてしんどくなる。
その内、気づけば脱ぎ方さえわからなくなっていく。
SM・調教とは、S側の視点から見るのであれば、脱ぎ方のわからなくなった人の鎧を強制的に剥ぎ取り、そして、鎧のかわりに包んであげる事なのではないでしょうか。
ちなみに、「SM」と「調教」は、同じ雰囲気を持っているから混同され、混乱する事も多いように思います。
私個人としては、次のように考えています。
SMは、緊縛したり痛みを与え、または与えられることにより視覚的・直接的な刺激を増幅する事をプレイとして楽しむ、セックスの延長線上にあるもの。
これに対し「調教」 「サブミッシブ(服従・従属嗜好)」は、関係性、つまり「主従関係」がまずありきの空間。
調教においても、SMプレイと同様、緊縛したり玩具を使って虐める事はあるが、それは肉体的な刺激を与えるより、「主従関係」をより明確にする手段として機能する。
ご主人様に仕え、従い、その要求を満たす事に従者は喜びを感じ、精神的に満たされ、そこから初めて興奮し、肉体的にも快楽を得る回路が開かれる。
つまり、関係性により精神的にも肉体的にも快感を増幅させる
緊縛・玩具・奉仕・奴隷
日常ではあり得ない、二人だけの秘められた関係性
傍から見たら、普通のカップルのようにしか見えない二人には、
確固たる「ご主人様」と「奴隷」の世界がある
周りには気づかれない関係性
身に着けている服の一枚裏の世界では、
ご主人様に代わって征服している緊縛
怪しい音を立ててうねる遠隔玩具
その関係性に感じるのだと思います。